式内社
綿神社御由緒略記
「御鎮座」
名古屋市北区西志賀町に御鎮座され、もと綿八幡とも称せられた。延喜式神名帳(約千七十年前の書)山田郡に、「綿神社あり小社なり」。国内神名帳に「従三位和田天神」とあり、尾張名所図絵春日井郡上線神社の条に「綿は海のかり字にて海童神を祭れるなり、昔は此の辺りまで入海にて、さる神社のおはしますなり、此西なる新川を掘りし時、地中より、蛤の殻の多く出し所あり、今もそこを貝塚と呼べり」志賀は水辺の里を呼ぶ例が多く、淡海の志賀の里と呼ばれる例は諸国に多い。
「御祭神と御神穂」
タマヨリヒメノミコト
玉依比売命
ミムスメトヨタマヒメノミコト
ウガヤフキアエズノミコト
海神綿津見神の御女で豊玉姫命の御妹。鶴鶴草葦不合尊の妃となり、神武天皇その他四皇子を生み給ふ。
安産、雨乞、海上安全の御霊験を持ち給ふ。
シングウコウゴウ
神功皇后
チュウアイテンノウツクシカシイ
第十四代仲哀天皇 (日本武尊の第二皇子)の皇后で、仲哀天皇筑紫橿日の宮に崩じ給いしにより、皇后は大臣
武内宿称と謀り天皇の喪を秘し、新羅を征し給ふ。
新羅、百済、高麗、の三韓をみな平らげ我国に朝貢するに至る。皇后は新羅より還り筑紫にて皇子誉田別尊
ゥ
(応神天皇)を生み給ふ。
オウジンテンノウ
応神天皇
天皇まだ神功皇后の胎中に坐しし時、新羅を征し給ふにより胎中天皇の称がある。第十五代の天皇として在位
四十一年、この間は国は富み兵は強く、また学術技芸が盛んに伝承し、皇威が宣揚されることいまだその比を見ず。宝算百十一歳の長寿をされた。世に八幡様と親しまれ「文武の祖神」として全国的崇敬を受けて居られる。
「御由緒」
当社の御鎮座地は織田長公の忠臣平手政秀の居住地で、政秀公は特に氏神崇敬の念厚く、在世中御社殿の修造再建されたり、兜の前立、狛犬(木製自作)神田五百二十七坪を奉納されたと伝えられる織田信長公からも戦勝記念に槍先を奉納され厚く崇敬された。(社宝として現存する。)
慶長十七年六月二十八日(桃山時代末期代百八代後水尾天皇の代約三百七十年前)御社殿の修復再建が行われた。
尾張徳川公も城北鎮護神として特に崇敬され、代々当社に参拝され絶えず修造料を賜った。
当社の西に古くから居住していた神官(森氏)の屋敷には、藩主御参拝の祈りの休息所として上段の間が設けてあった。
明治初年式内社に治定され、更に郷社に列せられる。昭和四十五年十月本殿、拝殿等を御造営、遷座、同年十級社より七級社に昇級する。平成元年十二月境内整備、社務所増築して平成の御代を記念して六級社に昇級する。
「大
祭」
十月十日
「末社」
多賀大社
津島神社
稲荷社
白龍社
白山社
秋葉社
浅間社
熊野社
四十八祖社
御嶽神社
「年中行事」
歳
旦祭一月三日
祈年祭二月下旬
初午祭二月下旬入学祭三月下旬
多賀祭五月下旬大祓祭六月三十日
茅輪祭八月一日
前
例
日祭
+月九日
大祭
十月十日
新嘗祭
十一月下旬
大祓祭
十二月三十一日
除夜祭
十二月三十一日
「御復興略記」
昭和二十年五月十四日の大空襲により当社も御拝殿神饌所を残し建造物の悉く灰燼に帰しましたが、幸い御神体のみは難を免れましたので神戸製鋼所の寄進により仮本殿に御遷座申し上げる。
第一期工事 昭和二十一年十二月三日 祭文殿及控所建設竣工(損傷のひどい御拝殿は危険のため取りこわす)
第二期工事 昭和二十六年九月末日本殿外及渡り廊下新築竣工
第三期工事 昭和二十八年十月六日社務所新築竣工
第四期工事昭和二十九年十月八日玉垣四末社新築、神餜所修理、参道献灯電気工事竣工
第五期工事昭和三十五年二月二十八日前年秋の伊勢湾台風により境内(木の倒木被害を受けたので松、杉、
檜等百五十本の植を行う
第六期工事 昭和三十五年十月八日
社務所の齋舘増築竣工
第七期工事昭和四十五年十月八日本殿拝殿再建
第八期工事 昭和六十年七月八日社務所の増築、境内整備
第九期工事 平成十年九月三十日倉庫改築
第十期工事平成二十一年七月三十日 手水舎改築
平成二十七年七月吉日
綿神社宮司石黒寛隆記